Re.Re.

生きてる間すべて遠回り

十代で最も悲惨なのは、運動神経の無い者。
二十代で最も悲惨なのは、恋人のいない者。
三十代で最も悲惨なのは、趣味の無い者。
四十代で最も悲惨なのは、信用の無い者。
五十代で最も悲惨なのは、希望の無い者。
六十代で最も悲惨なのは、資産の無い者。
七十代で最も悲惨なのは、健康でない者。
八十代で最も悲惨なのは、後悔しか無い者。


どの年代であれ、女っ気のないのが一番悲惨。

halcions:

ナタリー - ももクロ、東武動物公園で動物戦士ももいろアニマルZに変身
そんなことばかりしているうちに、わたしは、誰かに何かを伝えたいと思うことが少なくなった。特定の誰かに、どうしても君にわたしの気持ちを伝えたいのだと、衝動的にメールを打つこともなくなった。実体のない、そこにいるはずの誰かに向かって、空虚な言葉を放り投げるだけだった。
「教えを請うためにです。自分なりに術を立てて持参すれば、教える側も、どこが間違っているか指摘しやすくなります。誤りを指摘されることを恐れて、何もかも拝聴するだけという態度は、かえって相手に労をかけます」

子を持つ親の意見で、

イジメに合わないために私立に通わせるつもり

イジメにあったらすぐに親に報告するように言っている

イジメられたら後で復讐できるよう内容記録しとくよう言っている

イジメられても親だけは絶対に味方になるよと言っている。

などなど我が子を守るための決意がいろいろ出ている。

しかし、自分の子供がいじめ加害者になることを想定した意見が一つもないのはどういうことだ?

イジメが無くなって欲しいなら、

「お前が誰かをいじめたら、問答無用でこの手でお前を殺して、被害者に詫びる」

と常に我が子に言い聞かせとけ。

新しいことに対して「○○だから不安だ、ダメだ」とさえ言っていけば、
それが的中すれば「だから言ったのに」となる。逆に杞憂に終わっても「よかったね」と丸く収まる。故に、ネガティブは常勝する。だけどそこには、モノを生み出す、あるいは人を引っ張る力は”一切”ないからね。
女の子(5歳)に「せんせい、どうしたら おとな になれるの?」と聞かれたので「うーん…20歳になったらかなぁ」と答えたら、そばにいた男の子(5歳)が「『こどもに なりたい』と おもったら じゃない?」と素敵な答えを言った。本当にそうかもしれない。
非生産的な人が陥る8つの習慣
(1)食事を抜く
(2)休憩を取らずに1日働き続ける
(3)無計画に生活する
(4)電話やメールなどに気を取られる
(5)一つ一つのプロジェクトに部分的にしか集中しない
(6)人生の細かな事を行うのに必要な時間を考えない
(7)マルチタスク
(8)目標を立てない

私が高校のとき、私は数学だけは成績が良かった。だから数学の授業で教師の話は全く聞かずに「大学への数学」をやったり、「数学セミナー」を読んだり、院試の数学の問題を解いたりして暇を潰していた。定期試験ではいつも授業の範囲を無視して解答していた。それゆえ、正解なのにバツをされて答案が返ってくることが多々あった。採点した教師が私の解答を理解できないからだ。

バツが不当だからと私は数学の教師のもとに抗議に行くわけだが、その教師はたいてい私の話を理解できず(その教師はFラン大学の出身だった)、仕方ないので私は数学の学年主任(その人は京大の数学科出身だった)のところに持って行って、その人に私の答案を採点した数学の教師を説得してもらうのが常だった。

しかし、あるとき、私はいちいち抗議に行くのが面倒くさくなって、抗議に行くのをやめてしまった。どうせテストの点数が95点でも100点でも成績が5段階評価の5であることには違いないし、まして、この数学の担任に採点の間違いを認めされたところでそれは自分にとっては何の益もないことだからだ。

いや、嘘だ。その話は正確ではない。もう少し正確に言うなら、「この担任が理解できようが理解できまいが、数学的に見て正しいものは正しい」と私はある日、気づいたからだ。その担任の鼻を明かし、私自身の矮小なる自尊心を満たしたところで仕方がないのだと気づいたからだ。

そのことに気づけたことは、私にとってまさに僥倖であった。ああ、それこそが数学なのだと思った。数学的な“正しさ”が、個人の感覚や判断などに依拠してはならない。論理的に正しいものは正しいものとして存在しなくてはならない。誰かに理解されようが理解されまいが、正しいものは正しい。そして、自分は正しいものだけをしゃにむに追求していけばいい。それこそが学問なのだ。

何故、私はそのことに気づけたのだろうか?

それはたぶん「ペアノの公理」の定義を私が初めて見たときからだ。その定義を見て、私は何故か涙が止まらなくなった。それは自分でも訳がわからない体験だった。

高校生でも多分名前ぐらいは知っていると思うのだけど、ジュゼッペ・ペアノという人が1891年に「ペアノの公理」を定義して自然数全体を公理化した。数のなかで一番根源的な存在である「自然数」が公理化できるということそれ自体が数学の“健全性”(正統性)を示唆しているとそのとき私は思った。

涙がとまらなくなった理由は、いまにして思えば、きっと「ペアノの公理」が「自分はこの数学の世界に棲んでいていいのだ」という安心と安らぎを与えてくれたのだと思う。「ペアノの公理」こそが自分の存在を肯定してくれ、「自分なんて死ねばいいのに」と思っていた私を「自分なんて死ななくてもいいのに」と思わせてくれた。「ペアノの公理」が「自分がこの世界に生きていていい」ということを担保してくれているように私には思えたのだ。

誰かに理解してもらう必要なんてない。教師や友達に自分のことをわかってもらう必要はない。自分は自分が正しいと思う道を、自分が正しいと思うやりかたで突き進めばいい。数学の教師が一人もおらずいや人類さえもが地球上に誰ひとり存在しなくとも自然数は荘厳とそこに存在しているように、誰ひとりあなたのことを理解していなくとも、あなたはいつも正しく、そして、あなたはこの世に存在していて良いのだから。

(元記事: shirosasuke (muhuhuから))